嵐 THE DIGITALIAN 『Hope in the darkness』を見たらジャニーズ観揺らいだ(前編)
【前回の私!!】
友人が貸してくれた嵐のライブDVD「untitled」を見て衝撃を受けていたらTwitterのフォロワーが「THE DIGITALIAN」のDVDを送りつけてきてくれた為見たところ、『Hope in the darkness』『Zero-G』部分で自担脱退後のライブ以来にアイドルを見ながら嗚咽してしまったのでした。
本当にいろんな考えがあの数分で起こって自分のアイドル観が覆されるというか、否定までされかけたんじゃないかと思うほど色々受け取ってしまってその後しばらく抜け殻になっていたので備忘録も兼ねて思考の過程を書いておこうと思います。
⚠︎演出のネタバレを含みます⚠︎
私のジャニーズ観について
Hope in the darknessを見て感じたことを話す前に私のジャニーズ観を書いておこうと思います。これが揺らいだって話なので。
私はステージ上のジャニーズは、一番簡単に表すと神だと思っています。このブログ内で話すのはステージの上でのことに限定します。
4人のKAT-TUN*1がジャニオタ人生の始まりだったことも関係しているかもしれませんが、ジャニーズが歌い踊ることによって私達は笑顔になり、涙し、時には恐怖することもあります。音や光や炎や水が飾り付けることによってさらに神聖さが引き立つこともあります。
辞書を引くと絶対的なもの、畏怖・崇拝されるもの、等の言葉が出てきます。うーん、ジャニーズじゃん。
別に人間でないと信じ込んでいるわけではないのですが、ステージ=触れられない場所にいる時点では我々と同じ人間であるとは確認できないと思うのです。確認できないというか、する必要がないというか。
そして私は、ジャニーズの存在そのものを信仰していると信じ切っていました。
Hope in the darkness〜Zero-Gを見た
untitledがあまりにも衝撃的で、とても良いライブだけど正直言ってuntitledの方が凄かったな、と思っていました。アイドルの心拍数をリアルタイムで見られるのは純粋にオタク心として興奮するしデジタル〜な曲とか大好きだけど、割と穏やかな気持ちで見ていた気がします。
筋肉の反応を音に変える技術を利用したパートに入ったあたりもまだ、うわ〜すげ〜マジかよぐらいに思ってて、なんなら曲始まったところでもこの曲が目玉なんだ!くらいな気持ちで見てました。
しかし曲が進むにつれていつも見ているジャニーズと違うと思ったのが、曲中の嵐の皆さんが今までのジャニーズのコンサートで見たことがないほど余裕とは遠い表情をされていて、動きが音を出すためだけのことのように感じられて(実際そう)からどんどん「恐怖」の気持ちが湧いてきたんですね。
コンサートの紛れもなくド目玉の、一番壮大で普通ならあり得ない場面なのに、信仰の崩壊が起こる心地がしていました。
嵐さんがHope in the darknessを奏でている間とにかく色々なことを考えながら涙を流していたのですが、Zero-Gの話に入る前にこの時考えたことの整理を改めてしておきたくてこれを書いています。
Hope in〜の演出を見た後何故かトイレに駆け込んで泣きながら打ち込んだメモを見返すと「魔法ではなく科学 神ではなく人間」「操る 操られる」「信仰と信仰崩壊が同時に起こってる」「機械になる人間」「神を殺した」等のことが書いてあります。怖
今割と冷静になっても思うのが、「相反するものが両立しながらも片方を退けないと成立しない事」が起こっていたように感じるということです。
THE DIGITALIANには魔法は一切出てきていません。なんなら他のコンサートも事実としてはそうですが、"魔法"としての演出なら沢山存在します。ファンはそれを魔法と捉えて楽しみます。しかしTHE DIGITALIANは魔法のようなことが起こりながらも一切魔法ではありませんよと宣言しているようなコンサートだと思うのです。タイトルがもう。
それでも魔法「みたいな」ことは起こっています。人が離れた場所にいる人が持つペンライトの色を一切触れずに変える、それも一斉に、そんな場面日常で起こるでしょうか???
他のコンサートなら"魔法"でよかったと思うんです、でもTHE DIGITALIANでそれは通用しない。なのに起こっている。
私がそうというだけかもしれませんが、魔法みたいなことは魔法で片付いた方が楽しいんです。科学だ!って目を輝かせるのはそれを科学ですとして見せられている時のみであってよくて、コンサートはそういう場面じゃないと思うんですね。私はね。だけど櫻井翔さんの左手で5万5千人のライトの色が変わるのは科学ですと宣言されているんです、THE DIGITALIANなので。これは他の相反するものにも関わってきます。
「神か人間か」はメッチャ面白くて、これに「機械」っていう解釈が加わるのでもっと訳わからなくなるんですね、、、
筋肉の動きに反応して音が鳴ったり光が出たりするのって、演者が人間でないとできないことです。私はステージ上のジャニーズを過剰に神格化していて、同じ人間であるとは思えない方達だと思っていると前述しました。
しかし筋肉の動きを直接演出に関係させていることで、嵐が人間であることが可視化され、見る人に確認できるようになります。むしろ、人間でないとできないことをしているわけですからそれが主題のようになりますよね。
私にはそれが神の存在を否定することのように思えました。「人間である」ことを強く押し出して成り立つ演出であるということは、神を殺して成り立つ演出であるということのように感じられます。
ここで信仰の崩壊すら起きかけるということです。
さらにここに機械説が入るんですね(?)。一般的にはジャニーズのコンサートで音や光はジャニーズを引き立たせるものであって極端に言えば飾りであり、いくら演出厨を自称するオタクがいようともメインはその真ん中で存在するジャニーズです。
それが、この演出ではジャニーズが音や光を目的として動いています。そしてジャニーズのいわゆるアイドルらしさは他のパフォーマンスに比べて薄いような気がします。
その状態は機械化と捉えることができるように思えます。
しかしそこで機械化した人間が行っていることがあの広い会場を音と光で包んでそれをコントロールするということで、それって全然私が思う"神"が成し得る領域なんですよね。
演出を体の組織に求めることで、人間であること・科学であることをこれ以上ないほど顕在化させておきながら人の心をこれほどまでに動かすってことは、私が始めに言った価値観と照らし合わせると、"神"と十分表し得ると思うんですよ、、、信仰崩壊するほどの感情の揺らぎが信仰対象になるっていう、、、
機械=操られるもの というイメージが私の中にあるのですが、嵐の皆さんはあの場を操る側に見え、しかし機械と捉えていたら(その後のZero-Gの捉え方によって解釈が変わってくるように思う)操られる側に立っている可能性もあり、左右に身体の向きを変える数少ない振り付けなどを見てもなんとなく無機質さも感じます。
そこでこの曲の歌詞を見たのですが、機械が歌うにはあまりにも人間らしい躍動感があり、能動的な歌だと思うんです。(歌詞参照: *2 )
片方の解釈をするともう片方の可能性が浮かび上がり、どちらも否定できないのにどちらかでしかないような感覚に陥ってしまうように仕向けられたかのような演出が歌詞にも及んでいたんですね。
この、全部両立しそうで答えを選ばないと終わらない感覚が一種の恐怖だったんだと思います。
最後に思ったのが、私が信仰していたものって何?だったんですよね。
ジャニーズがただの人間(敢えて言います)だったことがわかった今、コンサートにおける所謂目玉演出を見ている時私が信仰していたのって機械が出す光だったの?特効だったの?ジャニーズの存在ではなかったということ?とつい問いかけたくなってしまったんですよね。
私が見ていたのは、神の虚像だったのか。
そしてその否定が、次の曲『Zero-G』で起こります。(激重)
後編へ続く
*1:2015年9uarterあたりから